2020年11月16日(月)
ハルです。
京都ALS患者安楽死事件は関係者に大きなショックを与えました。今、必要なのは、医療倫理です。医療倫理を医療関係者に任せっきりにするのではなく、私たち一人一人が「我がこと」として知ることです。
まず、「倫理」がどういうものかを整理します。似たものに「道徳」がありますが異なります。世間のきまりを遵守するのが「道徳」です。一方で、矜持(きょうじ)ある生き方を目指すのが「倫理」です。ですから「倫理」には論争が生じます。論証を通して「答え」を目指します。
また「倫理」は「哲学」とも微妙に異なります。「哲学」は明らかに常識とみなされているものを根本から考え直す営みです。「倫理」は、規範について「矜持ある生き方」の観点から「再検討」する可能性を残します。
さて、ではいよいよ「安楽死」について考えてみましょう。安楽死は本人以外の人間が関与することから「自殺」ではありません。「嘱託殺人」の一種です。「病苦」を理由にするため、医療というフィールドで取り扱われます。医療関係者にとっては大変なプレッシャーですが、彼らは「生」にも「死」にも携わる職業です。避けては通れないのです。
ここで、根本的な問題にぶつかります。「死ぬ権利」という概念は成立するのでしょうか?一般に「権利」があれば「義務」も生じます。こうした考え方からすると、「死ぬことで周りに迷惑をかけない」など何らかの義務も発生しそうですが、そんなものはありません。したがって、倫理的には、安楽死は「死の選択」ではなく、あくまでも「治療法の選択」ということになります。
もう一つポイントがあります。それは、「私」には人格としての「私」と身体における「私」の2種類が存在するという考え方です。そして、安楽死を選ぶということは、身体における「私」の利益を損なっても、人格としての「私」の意志が尊重されるべきという立場に立つことです。
こうした考え方は大変ややこしいものです。これらを理解するためには、これまでの「倫理」の概念を大まかに知っておく必要があります。
例えば、ルソーの「社会契約論」には、人間は利己的だからこそ共存する道を選ぶ、このため自分に認めてほしいことは他人にも認めなければならない、という考え方が基本にあります。
カントは、単なる手段にされてはならないという人格こそ人間の尊厳であり、全ての人が全ての人の尊厳を尊重する共同体こそ実現すべき「目的の国」と呼んでいます。
「功利主義」は、行為の良し悪しを、それがもたらす社会全体の幸福の増大または不幸の減少を基準に判断する考え方です。ヒュームは「当事者の立場に身を置いて考えよ」と唱えています。
これらを「安楽死」に当てはめると、お互いに想定される状態への理解、人間の尊厳に基づく仲間の扶助、困っている人への共感といったものになります。 (品川哲彦「倫理学入門」中公新書)
また、「安楽死」だけで考えるのは不十分であり、生と死を扱う「医療倫理」全体の視点から考えることが重要です。
例えば、「生殖補助医療」があります。菅首相の号令の下、不妊症を保険適用にしようという動きがあります。背景として日本は生殖補助医療クリニックが非常に多い国で、一年間に体外受精で生まれる子は5万人超もいます。
しかし、生殖補助医療の問題は、第三者からの精子、卵子という人間の命の元の提供がお金でやりとりされている実態に対し、何ら法的規制がかけられていないという点です。保険適用と併せて、こうした問題を整理しておく必要があります。
また、着床前診断があります。新しい命を迎えるかどうかという選択をすることになるわけですが、「優性思想」につながるという批判があります。旧優生保護法は、社会のためと称して、障害者の生殖機能を手術で取り除くことを認めていました。こうした歴史を振り返りつつ、整理する必要があります。
(橳島次郎「先端医療と向き合う」平凡社新書)
以上のように、日本における「医療倫理」の議論は、正面突破が難しいことからややもすると争いを避けて「実」を取ろうとしてきたきらいがあります。しかし、いずれ限界が来ます。
今回の安楽死事件は、厳しく断じられることでしょう。そして、安楽死の可否を考えることすら許されない風潮を生むでしょう。しかし、それでは「矜持ある生き方」は保てません。なぜこのような事態が生じたのか、背景にある国内の議論の熟度に目を向けつつ、私たち全員が真剣に考えなくてはなりません。
今、必要なのは徹底した議論です。一人一人が「医療倫理」を理解し、いずれ自分の周囲に起こることと捉えることが大事です。今回のような事件を二度と起こさないためにも、そうした雰囲気づくりや議論の場所づくりを国が率先して作っていく覚悟が求められています。