避けて通りたい、通れない「歴史問題」

2021年1月4日

 ソシエッタです。

 

 明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願いします。

 新型コロナのせいで微妙ですけど、今年は東京オリンピックパラリンピックの開催が予定されています。この状況下でどんなことができるか、日本が国際的に注目される年なんです。

 

 一方で、日本は近隣国との間で歴史問題を抱えています。「問題なんて無い」と否定される方もいらっしゃるかもしれません。しかし、戦争当時、他国に兵隊を派遣し、そこで戦闘が行われたことは事実です。

 日本が国際社会の牽引役として認められたいなら、歴史問題は避けて通れません。ここでは事実関係ではなく、歴史問題への接し方について考えたいと思います。

 

 代表的なものに、慰安婦問題、南京大虐殺などが挙げられます。特に前者については、軍の慰安所までの「強制連行」があったか無かったかという議論、1965年の日韓基本条約や2015年の「最終的かつ不可逆的に解決」するための日韓政府間合意が「なし崩し」になっていることが問題解決を困難にしています。

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 まず、難しいのは事実を認識することです。様々な資料や関係者の証言が出されますが、全てが正しいということにはならないです。慰安婦問題については、朝日新聞に記事を掲載した怪人物が現れました。また、政治的な圧力などでバイアスがかかるおそれもあります。

 そうなると、みんな腫れ物に触るかのように歴史に接することになります。学校の歴史教科書も、明治時代くらいまでは分量もそこそこあって、決まった内容の授業が進められますが、情報量が多く複雑になる現代史の扱いはむしろさらりとしたものになってしまいます。これでは、事実認識について、はなっからアジア諸国の若者に及ばないこととなります。

 

 仮に事実関係が整理できたとしても、その解釈や姿勢についての問題があります。過去の行為について謝罪すると国内から非難を受けるのは洋の東西を問いません。

 戦後、西ドイツでは、指導者たちが謝罪を表明し、教科書にドイツの悪行と近隣諸国の苦難を記述し、都市には犠牲者を追悼する記念碑を建てました。2000年には、強制労働を強いられた人々の被害を補償する目的で「記憶・責任・未来」基金を設立しました。(NEWSWEEK 2020.11.3)

 しかし、政府の姿勢は、罪を犯したのはナチスのせいであり、国家として法的責任を認めたものではないと批判されています。ネオナチといった極右勢力が伸張している現状を見ると、こうした批判が的を射ている気がします。

 

 戦勝国のイギリスも過去の克服については及び腰です。近代史上最大の植民地帝国を築き上げたイギリスですが、植民地支配や奴隷制に対し国家賠償を行わない姿勢を貫いています。1997年、エリザベス二世がインド独立50周年を記念してインドを訪れた際、かつての帝国軍が無差別射撃を行った現場にある記念碑で黙祷を捧げましたが、公式謝罪には至りませんでした。

 

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 そして、しばしば採られる手法が、「統治には悪いこともあったが良いこともあった」という「選別的思考」です。このような手法には注意しなければなりません。被害を実際に受けた人からすれば、到底受け入れられるものではないからです。

 実際、国際的には過去の問題を「清算」しようという動きが生じています。1990年代以降、旧植民地側が裁判に訴えて補償・賠償を求めたり、旧宗主国政府の公式謝罪を求めたり、記念碑建立や歴史教科書の記述変更を求めたりしています。

 各国の地位向上と情報のグローバル化によって、今まで以上に説明責任が求められているのです。慰安婦問題などもこうした国際的な流れの中で生じたものと捉える必要があります。 

(前川一郎「教養としての歴史問題」東洋経済新報社

 

 歴史は単なる「過去」ではありません。今の私たちに受け継がれ、今後に受け継いでいくものなのです。大事なのは、歴史をしっかり学ぶことです。それは、単に歴史的な事実関係を抑えるだけでなく、事実をめぐる議論には実は「幅」があるということを知ることによって、私たち一人一人が、入手した情報について疑うクセ、異なる立場から考えるクセをつけることにつながります。

 例えば書店で「嫌〇〇」という書籍を見かけたら、「違う考え方もあるのではないか」と想像力をたくましくして、こうした考え方が示されている書籍を併せて読むのです。

 アジア諸国の学生に比べ、日本の若者は戦後民主主義のあり方や植民地問題に関する歴史について無頓着だという指摘があります。これでは、いざ過去のことを持ち出されて非難されると感情論だけが突っ走ってしまいかねません。国際社会の中でどんな相手でも渡り合っていくためには、歴史について深く考察する機会を自ら設け、真摯に学んでいかなくてはなりません。