本当に見えてる?そこにある「人種差別」

2021年5月10日(月)

 ソシエッタです。

 

 2月に起きたタイガー・ウッズ交通事故のニュースはショッキングでした。一命はとりとめましたが、ゴルフ生命が絶たれる可能性があります。再びトップクラスの活躍はできるのでしょうか。一刻も早い回復を祈ります。

 

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 タイガーは自分のことを「カブリネイジョン(coblinasian)」と表現していました。これは合成語で、コーケイジョン(白人)、ブラック(黒人)、インド人、アジア人の頭文字をとったものです。自分のルーツに4つの人種があることを表現したのです。さしものタイガーも差別偏見から免れませんでした。保守的なクラブではラウンドさせてもらえなかったそうです。

 アメリカでは有色人種が車を運転していると、警官から故意に呼び止められることがあるそうです。タイガーほどの人なら運転手を雇ってもいいのでしょうが、普段から運転していました。差別偏見への抗いだったのかもしれません。そのことを思うと今回の事故は切ないです。

(ジェームス・M・バーダマン「アメリカ黒人史」ちくま新書

 

 人種差別が無くならない理由は、「差がある」ことにしたい私たちの「信念」、それを支持しようとする「科学」、そして、これらを背景にした「政治」が存在するからです。

 例えば、「統合失調症」は代表的な精神疾患で、日本では120人に1人が発症するとされています。カリブ海域系の黒人が白人よりも多く診断されたことから、イギリスでは「黒人の病気」と呼ばれています。そして、研究者は探索によって関連し得る遺伝的領域を発見しました。でも、その影響は発症リスクを0.25%高める程度でしかなく無視できるものでした。ちなみに、第二次世界大戦の勃発前、ナチスの科学者は、「精神障害ユダヤ人では精神障害ポーランド人より2倍多く統合失調症が見られる」と考察しています。状況により人種的偏見のターゲットは変わっていくのです。それほど脆いものなのです。(アンジェラー・サイニー「科学の人種主義とたたかう」作品社)

 

 アメリカやイギリスだけではありません。今、中国でもウイグル人チベット人に対する差別が問題になっています。いえ、事態はそれ以上に深刻と言えます。

 新疆ウイグル自治区では、2017年以降、推定で100万人以上のウイグル人強制収容所に収監されています。強制労働や妊娠中絶・不妊手術が強いられ、宗教施設は破壊され、街中いたるところに監視カメラが設置されています。(清水ともみ「命がけの証言」WAC)(NEWSWEEK 2021.4.6)

 2020年6月、トランプ大統領が署名して「ウイグル人権法」が成立しました。拷問や不当な長期拘束を実施した中国当局者らを特定し、資産凍結や入国禁止を科すというものです。人権を重視するバイデン政権もウイグルの状況を「ジェノサイド(民族集団虐殺)」と認定しました。中国政府は「少数民族の人権は守られている」と反論しています。 

 チベットについても同様です。日常的にロックダウン状態にあり、別の村に移動するだけでも許可が必要とされます。血液・体液の強制抽出という拷問もなされています。チベットのような高地では十分な血液が無ければ生きていけないことは周知の事実です。加えて、46%以上の森林が失われ、核兵器製造施設による地下水土壌汚染が発生するなど自然破壊も行われています。(ペマ・ギャルポ「日本人が知らない中国の民族抹殺戦略」扶桑社新書

 そして、こうした背景には、単なる人種間の問題以上に、中国による領土拡大、石油やレアアース等の地下資源の確保といった政治的な戦略が存在します

 

 人種差別は日本には存在しないと思いがちです。しかし、先日、バスケットボール選手の八村塁さんと弟の阿蓮さんのツイッターのやりとりから、彼らへの差別中傷が毎日のようにあることが明るみになりました。アイヌ、沖縄の人たちに対する差別が問題になることもあります。「人と差をつけ、自分だけは安泰でいたい」という気持ちが無くならない限り、知らず知らず差別意識が頭をもたげてくることに注意しなくてはなりません。

 

 今、新型コロナウイルス感染症の拡大が人々の不安を増大させています。人種別の感染者数の統計結果まで報道されています。「自分だけは無事でいたい」という気持ち、差別意識を増大させかねません。

 今こそ、「Black Lives Matter(黒人の命が大切)」ならぬ「Everyone's Lives Matter(一人ひとりの命が大切)」という姿勢が必要です。差別があってもいいという風潮を野放しにすれば、次はあなたが差別されることになるでしょう。人種間の「差」なんて無いのです。いえ、そもそも「人種」という概念さえあってはならないのです。一人ひとりが違っていいということを尊重する意識を持たなくてはなりません。