ありますか?「絶滅」への覚悟

2022年3月14日(月)

 エンヴィです。

 

 暖かくなってきました。生物たちも活動を再開します。その様子を見ていると、地球が6度目の大絶滅時代に入っているとは感じられません。一般に、「絶滅」は良くないこととされています。でも、冷静に考えれば人にも生物にも寿命があります。個体の「死」が避けられないのであれば、種の「絶滅」も避けられないのではないでしょうか。もし、そうだとしたら、僕たちは「絶滅」というものにどう向き合っていくべきでしょうか

 

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早良朋「へんなものみっけ!④」小学館

 哺乳類だけみても、この数百年で80種が絶滅しています。ニホンオオカミピレネーアイベックスなど人間の手によって絶滅した動物もいます。(うすくらふみ「絶滅動物物語」小学館

 国際組織IPBESによると、地球上の推定800万種の動植物のうち少なくとも100万種は、数十年以内に絶滅の可能性があります。一つの種が絶滅すれば、これに依存して生きていた種もドミノ倒し的に絶滅していくおそれがあります。それぞれの「種」は平均すると約100万年続くと考えられていますが、そうじゃなくなるのです。

 

 絶滅を食い止める活動がなされています。典型的なのが、つがいごと囲って繁殖させる方法です。日本では佐渡のトキ保護センターの取組が有名です。でも、人の手で作られた環境の中でうまく生きられたとしても、野生に返した場合の生存率は必ずしも上がりません。こうした、人間が何でも管理する方向について疑問の声が挙がっています

 同様のことが「復活の科学」に当てはまります。これは、映画『ジュラシック・パーク』のように、保存標本のDNAから絶滅種を蘇らせることです。マンモス復活プロジェクトなどがそうです。仮に蘇ったとしても、時代や環境が絶滅前のものと大きく異なる場合、その種にとって「復活」と言えるのでしょうか。生命体は環境との相互作用の中で、自分をつくる遺伝子スイッチを入れたり止めたりします。そのスイッチが異なっていく可能性があります。もはや別の「種」になるのではないでしょうか。人間の手で絶滅に追いやることと同様、絶滅を人間の手で食い止めようとすることも人間の「エゴ」なのです。(M・R・オコナー「絶滅できない動物たち」ダイヤモンド社

 

 ここで、いったん「生」とは何かを考えてみます。生物のはじまりはRNAとされています。化学反応が頻発するドロドロの原始地球において、偶然が重なり、生物が生まれ、その中で効率的に増えるものが生き残り、死んだものが材料を供給する「正のスパイラル」が作られました。やがて、よりたくさんの情報を持つDNAが登場します。細胞分裂をしますが、10億分の1程度のミスしか起こりません。しかも、RNAと違って2本鎖なので、片方が壊れても、もう片方で修復が可能です。セーフティが優れているのです。でも、時間が経つにつれて変異が蓄積される確率が高まります。これが、「がん」という「バグ」なのです。このため、がんリスクを最小限にする機能が、無制限に細胞が分裂することを防ぐことである「老化」なのです。つまり、「老化」そして「死」は、進化の過程で生物が獲得した、生命を連続させる仕掛けなのです。(小林武彦「生物はなぜ死ぬのか」講談社現代新書

 生命の連続性について、かのダーウィンは、環境に適応した変異が子孫へ受け継がれるという「自然淘汰説」を唱えました。木村資生は、突然変異は生物の生存競争において有利でも不利でもないという「中立進化論」を唱えました。僕たちは、たまたま生き残ったに過ぎないのです。

 そして、進化の過程で生物は何かを捨ててきました。例えばハツカネズミは食べられて死ぬ確率を減らすため多産の能力を得る一方で、長生きに関わる機能を失っていきました。もちろん、これは結果論です。たまたまそうした種が生き残ったに過ぎません。人間もそうです。直立二足歩行によって発達した脳を獲得しましたが、当時の猿人にとっては、むしろ、パワフルなチンパンジーとの生存競争では不利な立場にありました。最初から「敵無し」だったわけではないのです。しかも、二足歩行によって生じたデメリットに、痔、腰痛、難産などが挙げられます。人間だけが素晴らしいわけではないのです。(斎藤成也「人類はできそこないである」SB新書)

 

 こうした大きな観点で見ると、「絶滅」の受け止め方も変わります。もちろん、それは悲しいことです。僕たちは多様性の恩恵を受けています。多様性が失われた場合、人間も絶滅するかもしれません。それだけ、自然というのは人間の理解や想像を超えるものなのです。環境保護活動でさえ、突き詰めれば僕たち人間が絶滅しないようにする試みです。大事なのは、絶滅していく種を見ながら、「明日は我が身」という覚悟を持つこと、そして、自然の多様性に敬意を持つことなのです。